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中期までに入院3回。
過酷な妊娠生活はまだまだ続く。 3度めの入院から退院するときに、主治医から仕事復帰を禁じられ、 基本は自宅安静となった。 中期から後期に入るころ、さらなる試練が押し寄せた。 ウテメリンが経口投与では追いつかなくなってしまったのだ。 「ウテメリン」というのは、妊娠経験者の一定割合の人は知っていると思う。 わかりやすく言うと「まだ陣痛が来てはいけない時期に陣痛が来そうになるのを 抑える薬」。 お腹が張る=陣痛が早く来てしまう兆候=早産の危険性。 この兆候が徐々に強くなっていて、8か月時の検診でついに 「はい、このまま入院」と病棟に直送されてしまった。 経口投与で追いつかない場合、常にウテメリンを体内に入れ続けて 陣痛を抑えなくてはならない。 「常に」とはどういうことか? 答えは、24時間の点滴。 一瞬でも薬が切れてはいけないので、ずばり、昼夜問わず24時間の点滴、 それを臨月まで絶え間なく続けるのだ。 要するに24時間腕に針が刺さりっぱなし! 点滴ラインにつながれっぱなし! それも二日三日ではなく私の場合は丸一か月! それだけではない。ウテメリンには、はっきりとした副作用があった。 暑くもないのに体が火照って汗が出て、動悸がして手が震えるという、 知らない人が見たらまるで怪しいクスリをやっているみたいな状態になるのである。 そしてトイレ以外はベッドから降りてはいけない「絶対安静」。 常に汗がにじんでいるのにお風呂どころかシャワーも禁止、 洗髪介助は人手の問題なのか週に2回だけ、手が震えるから 唯一の楽しみの食事も一苦労、文字は一切書けない、 点滴のラインをひっかけてしまうといけないので寝がえりを 打つのにも神経を遣い熟睡できない…という状態で丸一か月。 同室の妊婦で24時間の点滴を入れているのは私だけ。 点滴のスピードを常に一定にコントロールするための機械がついているのだが、 これがまた曲者だった。 夜中に寝がえりをうって、うっかりラインが体の下に行くと、 機械のアラームがけっこうな音量でピーピー鳴るのだ。 それを聞いて看護師が飛んできて、点滴の流れを直す。 直し終わるまではピーピ鳴り続けるから、かなりの確率で同室の人を起こしてしまう。 不可抗力とはいえ、申し訳なくて仕方がなかった。 もちろん自分自身もろくに眠れない。 急性の胃腸炎を起こして夜中に七転八倒したのも、この入院のとき。 いまだに不思議で仕方ないのだが、入院中の人は全員、同じ食事を食べているのだ。 なのに私一人だけ、夕食後数時間が経った頃、猛烈な吐き気と腹痛におそわれた。 私も苦しかったが、お腹の中の娘も苦しかったのか、すごい勢いで 私の胃を蹴り上げてきた。 逆子ではなかったので、胎児がキックすると、当然下から上に蹴り上げられる。 この時は死ぬかと思った。生まれる前から家庭内暴力かい(汗)。 そんなことを挟みつつの、入院一ヶ月。 何がきついかって、つわりの入院もそうだけれど、「終わりが見えないこと」。 「臨月まで」と書いているが、結果としてそうだったということで、 入院時に「35週までこの状態ですよ」と告げられるわけではない。 早産の兆候がおさまってくれば点滴の量を徐々に減らして退院して 自宅安静に戻れる「可能性」はあります、と言われるだけ。 だから入院中、お腹の張りをモニターするときは祈るような気持ち。 症状が軽減していますように、と。 実際は、無情にも張りはおさまらず、かえって薬の量を徐々に増やされ、 それに比例して先述の副作用もどんどんきつくなった。 明らかにブルブル震える自分の手を見てぞっとした。 腕は数日に一回刺し直す点滴の針で、青タンだらけ。 夜は眠れない。しばしば悪夢にうなされる。 お腹の赤ちゃんが順調に大きくなっていたのがせめてもの救いだった。 …つらかったなあ…。 年月が経っても、いまだに思い出すと切なくて涙が出てくる。 これだけ耐えて耐えて、無事に出産して試練はこれが最後だった、 というなら、まだ「そんなこともあったよね」と言えるんだけどね。 残念ながら、最初の妊娠出産と育児については、これでもまだ 「試練の序章と第一章のさわり」くらいだ。 楽…というか「普通」だったのはお産くらい。 もはや何が「楽」で「普通」なのか、という感覚が完全に麻痺していた。 これを書いている最中に、たまたまデーモン閣下の「Post Truth」の 「微笑みのない長さだけ あなたは強くなるのだろう」という歌詞がイヤホンから 聞こえてきて涙があふれてきた。 あのころの私。微笑みのない期間がものすごく長かった。 さて、絶対安静で一か月もの間、どうやって過ごしていたのか。 ベッドのリクライニングはあまり起こすと看護師さんが目ざとくチェックして 「もう少し横になろうね~」と角度を倒されるので、ずっとTVを観ているのも つらいし、だいたい当時のTVは時間課金のカード制だった! ケータイはガラケーで、病室でインターネットなどできない時代。 仮にノートPCを持ち込んでも、ネット回線は有線のLANケーブル、という頃である。 そしてもちろん、病室にはLANは来ていない。 そこで私が文字通り編み出した暇つぶしは、編み物。 縫い物は手の震えで無理だが、編み物だったら何とかできた。 自宅から道具一式と購入してあったベビーニットの編み方本を持ってきてもらい、 材料の毛糸はメーカーと型番を夫に言って買ってきてもらった。 そして昼間はほとんどずっと赤ちゃんのためのものを編んでいた。 とにかく時間だけは履いて捨てるほどあるのだ。 妊娠中や出産後、多数のベビーニットを編んだりベビー服を縫ったりして、 ほとんど全部お下がりに出したが、この入院中に編んだベビーケープだけは 手放せなくて今でも手元においてある。 だってつらい入院を、娘を無事に産むために私が頑張って乗り切ったのを 目撃していた「証人」なんだもの。 夫がほぼ毎日、会いに来てくれたことも大きな救いだったかな。 私が精神的に不安定だったので、とにかくこまめに気を紛らわせて あげないと、と思ってくれたのか、平日は仕事の後、面会時間ぎりぎりの わずかな時間でも来てくれた。 土日はもちろん、両日来てくれた。 夫のこういう処はえらいな、と思う。 「愛とは名詞ではなく動詞である」という言葉がある。 言葉で「愛してる」というのは本当の「愛」ではなく、愛しているからこそ行う 具体的な行動こそが本当の「愛」である、という意味で、私はこの考え方に 深く共感している。 夫の毎日の病室への来訪は、まさに「愛」だった。 私のお願いに応えて編み物用の毛糸を慣れない手芸品店に買いに行ってくれたのも「愛」だ。 彼のこういう行動が無ければ、私の精神状態はもっともっとひどくなっていただろう。 臨月に入り、正常産期(36週)には一週間足りないが、もう生まれてきても大丈夫だろう、 という医師の判断で、ウテメリンの点滴がついに抜かれた。 その直後…というか半日後だったか、激しいお腹の張りが来て、もしやこのまま 本物の陣痛になるのでは?!という状態になり、まさか急にそうなるとは かけらも思っていなかった私はパニックに陥った。 担当医も一言、そういう可能性があるよと言っておいてくれればいいのに…。 一応、擬似陣痛のようなものはおさまったが、覚悟の無いところに急激なストレスを 受けたためか、激しい動悸と呼吸困難になり、医師があわててナースコールで オシロスコープを持ってきて!と叫んだことが記憶に残っている。 そんな騒動もありつつ、いったんは退院して自宅に戻れることになった。 これが35週の前半。 意外と予定日(40週0日)まで持つかもね、という担当医の冗談は さすがに信じられなかったが、やっとここまでたどり着いたなあ、 という感覚。 自宅でお風呂に入り、病院食じゃないものを食べ、思う存分TVを観られる。 自分の家にいられるって素晴らしい!! 「当たり前って素敵」という生活を味わって一週間半。 36週の最後の日を迎えるという早朝。 お腹の奥のほうで、ぶつっと何かがわずかにはじけるような感覚で目を覚ました。 破水だった。 初めてのお産編(予定)に続く。
by pino-ombra
| 2017-09-02 01:07
| ワーキングマザー
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